背中



地面の上に広げた毛氈を、舞い散る桜の花びらが桃色に染めていく。
今夜は南町奉行所の与力・同心の全員で、恒例の花見をすることになっていた。
花見の場所となった隅田川の川岸は、混み合ってはいるものの、早くから場所を取っていたこともあり、全員が着席するには十分な広さがあった。

「田中様、一献いかがですか?」
同心・溝呂木が差し出す徳利を、筆頭同心・田中は笑顔で受けた。
「ありがとうございます、溝呂木さん。手ずからお酌をして下さるなんて、あなたは本当に気が利く方ですね。」
注がれた酒を口に運びながら、田中はある一方をちらりと盗み見た。
隅のほうで、重箱に並べられた食物をせっせと口に運んでいる、南町奉行所の昼行灯、中村主水の要る場所を。

(全く…、いつもはさぼってばかりいるくせに、こういう時だけ機敏に働くんですからね、あの人は…。)
微かにため息をつき、尚も話しかけてくる溝呂木を制し、
「ちょっと、失礼しますね。」
そう言って、田中は自分の盃を持って立ち上がった。

円座になっている一同の後ろを通り抜け、田中が座り込んだ場所は、何と中村主水の隣であった。
「…あれ、田中様。どうなさったんです?」
口の中の物を飲み下し、中村が田中に声を掛ける。すると田中はじろりと中村を睨み、

「どうなさったんです、じゃありません! 先ほどから見ていたら、まあ食べ物ばっかりぱくぱくと…! 
中村さん、あなたには自然を感じる心というものがないんですか!?」
「はぁ…。」

さすがの中村も箸を置き、困ったような表情を見せる。それをいい事に、田中の話はとどまる所を知らない。

「少しは桜も見たらどうなんです!? 何のためのお花見か、わからないじゃないですか。それにね、
上司の盃が空いていたら、何も言われなくともお酌の一つや二つするのが礼儀ってものでしょう!?」
「……ああ、こりゃ…、気づきませんで、はい…。」
言われて、渋々ながら田中に酌をする中村。それを飲み始めた田中から見えないように、中村は顔を顰めて舌を出した。



「…ん?」
うっすらと目を開けた田中が見たものは、ゆっくりと流れる景色だった。
頬が温かい。ぼんやりとした頭で、田中はようやく自分が誰かに背負われているのが分かった。
広い背中にくっついたままの桜の花びら。それを指で摘み取ると、自分を背負っている人物が首だけ動かしてこちらを見た。

「田中様、気が付かれましたか?」
「……中村さんっ!?」

田中の酔いが、一気に醒めた。耳元で大きな声を出され、中村は思わず肩をすくめた。

「そんなに大きい声を出さなくとも、聞こえますよ…。」
「なっ…、ちょっ…、そうではなくて、何で中村さんが私を背負っているんですか!?」
「えぇ? 覚えていらっしゃらないんですか? 田中様は酔いつぶれてしまって、眠り込んでしまったんですよ。
で、お開きになっても起きませんでしたから、仕方なく私が背負って、屋敷までお送りしている最中なんです。 お分かり頂けましたか?」

中村の背で、田中は呻いた。まさか筆頭同心である自分が、そんな失態を…。
力なく項垂れると、自分の額が中村の背に当たる。それが何故か気持ちよく、田中は改めて中村の背中にその身を預けた。

「田中様、気が付かれたのでしたら、ご自分で歩かれた方が…。」
「いいんです。私はいつも、筆頭同心として重い責任を負っているんですよ。それに比べたら、これぐらい何ですか。ほら、しっかり歩いてくださいよ。」
「はいはい…。」

げんなりした顔の中村。その背に負われた田中が、ほんのり笑みを浮かべているのを、彼は知らない。




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