空の渚



ぽかぽかと暖かい、晴れた土曜日。
俺は、自分の部屋のベランダに立ち、ぼんやりと外を眺めていた。
高台にあるマンション。そのベランダからは、眼下に広がる街並みや、遙か遠くの山々までが見渡せる。
視界を遮るものもなく、見晴らし、日当たり共に良好。このマンションの一室を選んだのも、この景色の良さに心惹かれてのことだ。
「ブルース、コーヒー入りましたよ。」
後ろから掛かった声に振り向くと、学がコーヒーの入ったマグカップを手にベランダに出てきた。
「ありがとう。」
学の手から青いカップを受け取り、口に運ぶ。学も俺の隣に並び、白のカップを手に包んだまま、空を見上げた。
「いい天気ですねぇ…。」
「そうだな。」
学の入れてくれたコーヒーは、濃さ、ミルクと砂糖の量、全てが俺の好みに合っている。自分でも気づかないほどの笑みを浮かべながら、俺はカップをベランダの柵の上に置き、大きく息をついた。
「ああっ、こぼさないでくださいよ!」
「大丈夫だって。ちゃんと取っ手に人差し指通してるだろ?」
「そりゃそうですけど…。」
ぶつぶつ言いながら、学はコーヒーを口に運ぶ。俺は学にわからないように苦笑を漏らし、柵に体を預け、空に視線を移す。
俺たちの頭の上には、薄い雲が広がっていた。それは、雲の真ん中辺りから一本線を引いて、その線に沿って真っ直ぐ切ったようになっており、雲の白と空の青の境界線がよくわかる。
(……。)
何の気なしにその雲を眺めていると、唐突に学が口を開いた。
「あ、ブルース知ってますか? ああいう、途中でばっさり切ってあるみたいな雲のこと、『空の渚』っていうらしいですよ!」
「……渚? 空にか?」
疑わしげな俺の口調に、学は慌てて言い募る。
「えっと、きっと空を海に見立てて、その横に広がる雲を、白い砂浜に見立ててるんだと思うんです。」
その言葉に、俺は改めて空を眺める。空が海で、雲が砂浜……
「…なるほど。」
そう言われてみれば、見えないこともない。しかし、よくそんな言葉を知っているものだ。
「キレイですよねぇ…。あんな海、行ってみたいですねぇ。」
「…海か。この間行っただろう?」
「いや、白い砂浜って言ったら、やっぱり南の島じゃないですか? いいですよねー…、眩しい太陽の下で、思いっきり遊んで、時間を忘れて…。」
…何だか、学はうっとりしている。すでに心は南の島へと飛んでいるみたいだ。
と思ったら、学はぱっと顔をこちらに向けて、こんな事を言い出した。
「あ、そうだ! 南の島へ行く前に、お花見行きましょうよ! お花見!」
「……えぇ?」
南の島とお花見が、どう繋がるんだ?」
「だって、もうすぐ春なんですよ? 春っていったら、やっぱりお花見でしょう!
 ブルース、人ごみはキライだとか言ってますけど、お花見はしないと損ですよ!」
花見か…。と小さく呟いて、俺は少し温くなったコーヒーを飲み干す。すると、数年前、まだここに越してくる前に、散歩がてらに行った花見のことを思い出した。
「そう言えば、俺が前住んでたところには、近くに桜の名所があったな。」
「ホントですか!?」
「ああ。広い川の両岸に、ずらっと桜が植えてあってな、河川敷、って言うほど大きくはないが、遊歩道もあってな。
 そこのベンチに座って見てると、ちょうど満開の時期だったからかな、風が吹くたびに、数え切れないほどの花びらが飛んでいくんだ。
 あんまりキレイなんで見とれてたら、いつの間にか夕方になっててな。それはそれで風情があったが、くしゃみが出たところで我に返って、そそくさと帰ってきた…。」
「そこ行きましょう!!」
俺の話を遮るように、学がこちらに向かって身を乗り出す。その目は、今までにないくらいにキラキラと輝いていた。
「…行くのか? ちょっと遠いぞ?」
「大丈夫ですよ。そんなにキレイだったら、一度は見ておきたいし、それに…。」
学はそこで言葉を切り、俺の耳元に口を寄せた。俺は学のほうに首を傾け、話しやすいようにしてやる。
空いた左手を俺の肩に置き、少しためらった後に、学は口を開いた。

ブルースが見た景色を、俺も見てみたいんです。

そう言った後、学は恥ずかしそうに顔を赤らめる。俺は最初こそきょとんとしていたが、恥ずかしさからか学がカップを両手で弄び始めたのを見て、いったん目を閉じた。
(…一人で見ても、あんなにキレイだったんだ。学と二人で見たら、もっとキレイだろうな…。)
そう思い、俺は学ににっこりと笑いかけ、
「…そうだな、一緒に行くか。」
「はいっ!」
学も、俺に負けないくらいの笑顔で答えてくれた。
「あっ、見てくださいブルース! 飛行機雲ですよ!」
視線を俺から空に向けた学が、嬉しそうな声を上げる。その視線の先を追うと、風に吹かれて少し位置を変えた「空の渚」を横切るように、飛行機が真っ直ぐな線を空に描いて飛んでいくのが見えた。
「キレイですねぇ…。」
「そうだな…。」
少し遅れて、飛行機のエンジン音が耳に届く。俺たちは、飛行機が空の果てに消えて見えなくなるまで、その軌跡をいつまでも見送っていた。



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