花人
花の香りが、その庭には満ちていた。
満開の桜を愛でながら、晴明と博雅は二人、静かに酒を飲んでいた。
暖かな、春の宵であった。
満月の光が、灯明を不要とするくらいに、下界に降り注いでいる。
地面に敷いた赤い毛氈を覆い隠すように、花びらが何枚も積もっている。
もちろん、二人が手にした杯の中も、例外ではない。
その酒を花びらごと飲み干し、博雅はほうっとため息をついた。
「良い心持ちだなぁ、晴明よ…。」
うっとりと呟く博雅に対し、晴明は微かな笑みを浮かべたままであった。
白い狩衣をふわりと纏い、薄く紅を差したような唇に杯を運ぶ。
「まるで、桜そのものを味わっているような気になってくるよ。」
大気に満ちた花の香りを、博雅はその身に深く吸い込む。
晴明は酒を飲みながら、彼の言葉を黙って聞いていた。
「そうだ、晴明…。」
すると博雅が、手の中の杯を置き、姿勢を正した。
「…何だ?」
「あのな、呪の話なんだが…。」
博雅の言葉に、晴明は少し驚いたようだった。
「珍しいな、お前から呪の話をするとは…。」
いつもであれば、博雅が感じる時の流れや、四季の移り変わり、そして人の心の様子などを、晴明が「呪」という言葉で説明する。
すると、大抵の場合博雅は話を遮ってしまう。呪で例えられると、陰陽師でない博雅は混乱してしまうらしい。
「以前、お前は『呪』というのは、物に付けられた名前であったり、美しいものを見て動かされる、人の心でもあると、そう言ったな。」
「…あぁ。」
「なら、『呪』というのは、人が心に持つ、『思い』でもある。そうだな?」
博雅の言い分に、晴明は素直に感心した。
「よく解っているではないか、博雅。こと呪に至っては、お前は言葉ではなく、感覚で捉えてしまうからな。まったく…。」
「まぁ待て、晴明。まだ俺の話は終わっていないぞ。」
そのままいつも通りに説明に入ろうとする晴明を、博雅は手を振って制止した。
「だから…、俺は、今からお前に、『呪』を掛けようと思う。」
「……俺にか?」
「あぁ。」
言われて、晴明も姿勢を正す。
「面白いな。やってみてくれ。」
向かい合う二人の間を、花びらを含んだ風が通り抜ける。博雅は軽く咳払いをし、晴明の方に向き直った。
「いいか晴明、俺は、お前を…。」
そこまで言って、博雅は口籠ってしまう。晴明はその先を促がすような事はせず、じっと博雅を見つめている。
「あー…。」
たっぷりの沈黙を挟み、博雅は照れたように笑う。
「何と言ったら良いか、分からなくなってきたな…。」
頬に手を当て、しばしの間思案に暮れる。晴明は依然として博雅から視線を外さず、片膝を立てて姿勢を崩した。
「……よし。」
意を決した博雅は、その場に立ち上がり、晴明との間の数歩の距離を詰める。
自分の隣に腰掛けられ、晴明は訝しげな視線を博雅に投げる。
「晴明…。」
博雅の手が、その白い頬に触れる。至近距離で互いを見つめあう二人。
微かに開いた赤い唇が、博雅のそれによって塞がれる。
晴明は、目を驚愕に大きく見開いた。
やがて二人は体を離す。博雅は呆けたように息を吐き出した。
「…どうだ?」
問われて、晴明は俯く。その頬が微かに赤く染まっているのは、酔いのせいだけではないだろう。
「…ああ、確かに、呪が掛かったよ…。」
空になっていた杯に酒を満たし、晴明は小さく呟いた。
「言葉でもなく、御符を用意するでもない。お前は口付け一つで、いとも簡単に俺に呪を掛けてしまったな。
全く、大した漢だな、博雅…。」
「それでは、誉めているのかどうなのか分からんぞ、晴明…。」
晴明の酌を受け、博雅も杯を干す。
「誉めているのさ。」
月の光が、晴明の顔に影を作る。こちらを見つめた晴明は、いつも通りの微かな笑みをその顔に浮かべていた。
「お前は良い漢だな、博雅…。」
「…お前も良い漢だぞ、晴明。」
程なく、二人は顔を見合わせて笑い声を上げた。その声は、月光と花の香りが満ちた空に、ゆっくりと溶けていった。
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