Fearless spirits
朝のゴミ出しを終えて戻ってくると、ちょうどお向かいの家から出てきた奥さんと目が合った。
「おはようございます。」
「あ、おはようございます。今日も良い天気ですね。」
簡単に挨拶を交わして、私は家の中へと戻った。
夫であるケイシーの転勤に伴い、私― エイプリルがこの街に引っ越してきてから、もうすぐ一ヶ月になる。
近所の皆さんとも打ち解け、近所の商店街やスーパー、最寄り駅までの道も覚えて、何とかやっていけそうな気もする。
だけど…。
…一軒だけ、まだよく分からない家がある。
同じ通りの、私たちの家から5軒ほど離れた場所に、その家はあった。
(道場、かしら…?)
初めてその建物の前を通った私が抱いたのは、そんな小さな疑問。
明らかに普通の家とは違う、横に長い間取り。「生徒募集中」の看板。
だけど、平日は稽古をしている様子がない。だって物音がしないんだから…。
それに、そこに住んでいる人たちも、何だか得体が知れない。
ここに引っ越してきて間もない頃、私は日課にしている早朝のウォーキングに出掛けた。
近所の道を知るのに丁度いいし、何より体にもいい。いつも通り、音楽を聴きながら…と、思っていたんだけど。
(あら…?)
いつもは閉まっているはずの道場の窓が、今朝に限って開いている。
(何でかしら…。)
興味本位でのぞいてみた私は、そこで凄い物を見た。
板張りの道場の奥の、一段高くなっている場所に、緑色の肌の男性が一人、静かに座禅を組んでいた。
蝋燭の炎が二つ、薄暗い空間を仄かに照らしている。
(……。)
ふと、何かの気配を感じて、私は上を向く。すると、道場の天井に、女性が一人、文字通り張り付いているのが見えた。
(嘘…!?)
さらさらストレートの黒髪を、肩の辺りで切り揃えた、スレンダーな女性。彼女は音もなく床に降り立つと、腰の刀を引き抜き、そのまま座禅を組んでいる男性に襲い掛かった。
「あっ…!」
危ない、と声を掛けようとしたのも束の間、男性はふっと閉じていた両目を開き、振り下ろされてきた女性の刀を、傍らに置いておいた刀の鞘で受け止めた。
(嘘っ…!?)
そのまま押し合いになるかと思ったけど、女性は腕の力を抜いて後ろに飛び、男性と距離をとった。その間に男性は鞘から刀を抜き払い、正眼に構える。
やがて、どちらからともなく打ち込まれる刀。数度打ち合った後に、女性が持っていた刀が跳ね飛ばされる。
「くっ…!」
初めて呻き声を発し、女性は腰の後ろから、短い刀のような物を二本取り出し、両手に持った。
(あ、あれ、「クナイ」って言ったかしら…。)
呆然と見つめる私の前で、再び始まる打ち合い。やがて、二人は荒い息をつきながら、少し距離を取った。
「……。」
二人が放つ気迫に、私まで息を呑んでしまう。しばらくすると、男性の方が大きく息をつき、額の汗を拭った。
「…カライ、今日はこの辺にしておこう。」
「…ああ、そうだな。」
カライと呼ばれた女性が、ふっと気を抜いた、その瞬間。
「ふっ!」
男性の方がいきなり距離を詰め、女性の手の中のクナイを両方とも叩き落し、そのまま床に伏せさせた。
「ううっ…!」
慌てて身を起こそうとする彼女の眼前に、男性の持つ刀の切っ先が突きつけられる。
「…油断大敵だぞ、カライ。」
そう言って悠然と微笑む男性に、彼女は笑いを漏らしながら額に手を当てた。
「…あぁ、またお前にしてやられた…。」
微笑む彼女を起こしてあげて、男性はそっと彼女の唇を塞ぐ。特に抵抗することもなく、彼女は男性の行為を受け入れた。
(えぇっ…!? それで、いいの…!?)
目の前の光景に、私は当初の目的だったウォーキングをすっかり忘れてしまっていた。
そんなことがあってから、私の中であの二人に対する認識は「よく分からない」にとどまっていた。
その日の夕方、私は夕飯の買い物をしに、商店街へと出掛けた。
(今日は肉じゃがにしようかしら。ケイシー、お肉好きだし…。)
そんな事を考えながら買い物を済ませ、最後に寄った八百屋さんで、私は例のカライさんに会ってしまった。
「うーん…。」
彼女は、リンゴの山の前で、ずっと悩んでいるようだった。一つ手にとってはしげしげと眺め、また別のを手にとってじっくりと吟味している。
そんな彼女に、私は思い切って声を掛けてみることにした。
「…こんばんは!」
「あっ…!」
急に声を掛けられたことにびっくりしたのか、彼女は私のほうを向いて、少し顔を赤くした。
「あなたは…。」
「そういえば、引越しのご挨拶に行ったとき以来でしたね。私はエイプリル。一月前に、近所に越してきたんですよ。」
「あぁ…。」
やっと思い出してくれたのか、彼女は私に笑顔を向けてくれた。
「私は、カライ、という。よろしく…。」
「こちらこそ、よろしくお願いするわ。 リンゴ、好きなの?」
私の言葉に、カライさんは手の中のリンゴに視線を落とし、今度ははっきりと顔を赤らめた。
「あぁ、これは…。…レオナルドの好物が、リンゴだから…。」
「…レオナルドって、旦那さん?」
「…そうだ。」
少し恥ずかしそうに、カライさんはリンゴを三つ買って、袋に入れる。…そうか、あの男性、レオナルドって名前なんだ…。
その後、私たちは家の方向が同じなこともあって、一緒に帰ることにした。
「私とレオナルドは、共に道場を経営している。が、レオナルドは普通に働いているので、道場を開くのは週末だけなんだ。」
「そうなの…。」
道理で、平日は静かだったわけだ。
「彼と私は、実力が拮抗していてな…。頑張ってはいるのだが、どうも私は最後の最後で彼に勝ちを許してしまうんだ。何故だろうな…。」
「…惚れた弱み、じゃない?」
からかうような私の口調に、カライさんはさらに顔を真っ赤にして、
「…そうかもな。」
あら、本気で照れてる。意外と可愛い所もあるのかも…。
少しは仲良くなれたかしら、と思ったけど、いきなり後ろから聞こえてきた悲鳴に、彼女はふっと表情を引き締めた。
「引ったくりよー! 誰か、そいつ捕まえてー!」
振り向いた私たちの目に映ったのは、後ろを歩いていた女性のハンドバッグを奪い、こちらに向かって走ってくる男の姿だった。
「…!」
「えっ、カライさん!?」
突然のことに慌てる私を後目に、彼女は荷物をその場に置いたまま、引ったくり犯の進路を塞ぐように立った。
「退け!」
男の怒声にも、彼女は怯まない。それどころか、
「はあっ!」
走ってきた男の勢いを利用して、彼女は奴の腕を掴み、そのまま見事な一本背負いをしてみせた。
「ぐえっ…。」
変な声を上げて、男が意識を失う。止めていた息を吐き出して、彼女は男の手からバッグを取り戻した。
「…何をしている。早く警察に通報してくれ。」
「…あ、ええ…。」
呆然としていた私は、そこで初めて我に返り、携帯電話を取り出した。
「…もしもし、すみません、引ったくりです。はい、犯人は捕まりました…。」
電話の最中、私はちらりと彼女の方を見る。と、彼女は懐から細い縄を取り出して、犯人を後ろ手に縛り上げていた。
(何であんな物持ってるの…!?)
バッグの持ち主の女性が、しきりにお礼を言ってきてたけど、正直なところ、私は呆然としてしまって、よく覚えていなかった。
第一発見者、ということで、私たちは揃って取り調べというのを受けた。
私は通報しただけだったからすぐに終わったけど、カライさんは犯人を捕まえたということで、少し時間が掛かっていた。
「はぁ…。」
取調べなんて、生まれて初めて受けた。ドラマでは見たことがあるけど…。
廊下の長椅子に座って、私はカライさんが出てくるのを待っていた。すると、
「エイプリル!」
大きな声が廊下に響いた。この声はやっぱり…
「ケイシー!」
「エイプリル! 怪我はなかったか!?」
思い余ったのか、ケイシーは私をぎゅっと抱きしめる。その腕の強さに、私は急に気が緩んで、安心してしまった。
「警察から連絡受けてな…。急いで来たんだ。本当に大丈夫なのか?」
「ええ…。私は、警察に通報しただけだから…。」
「良かった…!」
ケイシーがほっと息を吐くと、目の前の取調室のドアが開いて、中からカライさんが出てきた。
「…もう大丈夫なの?」
彼からそっと体を離して、私はカライさんに声を掛ける。
「…ああ。だが、警察から注意されてしまったよ。『あんまり危ないことはするな。』とさ。」
「でも、無事で良かったわ…。」
ほっとした私がため息をつくと、ケイシーがきょとんとした顔でカライさんを見ていた。
「…エイプリル、知り合いか?」
「ええ、彼女は…。」
私がケイシーにカライさんを紹介しようと思ったところで、
「カライ!」
ケイシーに負けないくらいの声が、廊下に響いた。声のしたほうを向いたカライさんが、何かに驚いたような顔になる。
「…レオナルド!」
「カライ! 良かった…、無事だったんだな!」
走ってきた声の主は、安心したような顔でカライさんを抱きしめる。あの、緑色の肌の男性だった。やっぱりあの人が、カライさんの旦那さんの、レオナルドさん、なのね…。
「あ、レオナルドさんの奥さんだったんですか。」
「ええっ!?」
その時、ふとケイシーが漏らした一言で、私の混乱は最高潮に達した。
「し、知り合いなの?」
「ああ。言わなかったっけ?」
さらりと言ってのけるケイシー。そりゃあ、彼は普段からあまり会社のことを口にしないけど…。
「…では、今日はもう遅いですし、私たちも帰りましょう。さ、カライ…。」
レオナルドさんの言葉に従い、私たちは警察署を後にした。何だか今日は、いろいろありすぎて、疲れちゃった…。
「…すまない、レオナルド。せっかくお前の好きなリンゴを買ったのに…。」
「気にするなよ。それよりも、怪我がなくて良かった…。」
そんな会話が、前を歩く二人から聞こえてくる。私たちはその後ろを並んで歩いてるけど、ケイシーも疲れてるのか、何も言ってこなかった。
「あ、そうだ。…カライ。」
「…何だ?」
「…お疲れ。」
レオナルドさんは、顔だけ彼女の方に向けて、器用に片目をつぶってみせた。それを見て、見る見るうちに彼女の顔が赤くなっていく。
「…まったく、馬鹿だな、お前は…!」
照れくさいのを隠しているのか、カライさんの声が低くなる。そんな彼女の肩を抱くレオナルドさん。私には、彼らの姿がとても微笑ましく映った。
「レオナルドさんだろ? 俺と同じ会社で、同じ部署だぜ。」
「そうだったの!」
家に帰り着いて、着替えるケイシーを手伝いながら、私はレオナルドさんについて聞いてみた。
「ああ見えてな、あの人、すげぇ強いんだぜ。その辺の奴じゃ、相手にもならねぇと思うな。」
それはそうね、と私は思う。あんなとこ見ちゃったんだから…。
「そうそう、こないだもな、俺とレオナルドさん含めた数人で、外にメシ食いに行ったときのことなんだけどさ。駅前の銀行の前通りかかったら、いきなり乗り付けてきた白いワゴン車から、覆面した変な奴らが数人、銀行の中に駆け込んでいったんだ。」
「えっ!? ぎ、銀行強盗、ってこと!?」
「ああ。『大人しくしろ! 金を出せ!』とか言ってたしな。」
物騒な話である。でも、そんなニュース、新聞にも載ってなかった様な・・・。
「普通だったらさ、そんなとこ見ちゃったら、慌てるしかねぇだろ? でもな、レオナルドさんは違ったんだよ。俺たちに『ちょっと待っててくれ』って言い残してさ、一人で銀行の中入ってって、五人くらいいたかな、強盗と思われるやつらを、あっという間に叩きのめしていってな。」
「……。」
言葉をなくす私に構わず、ケイシーは話を続ける。
「呆然としてる周りの人間に、『早く警察に通報した方がいい』とか何とか言ってさ。外でぽかーんとしてた俺たちんとこ戻ってきてさ、『お待たせしてしまって、済まなかった。』なんて言うんだよ。何事もなかったかのようにさ。すげぇだろ?」
「…凄すぎるんじゃない?」
無意識に呟いた私の言葉に、ケイシーも頷く。
「だよなぁ。ただもんじゃねぇぞ、あの人。」
彼はそう言って、リビングの方へ向かう。…ケイシー、私は自分の目で見たから言うけど、ただ者じゃないのは、カライさんもそうなのよ…。
とにかく、レオナルドさんとカライさんは、二人揃って凄い人なんだ、ってことが分かった。
翌朝、出勤していくケイシーを見送ったあと、私はカライさんも、レオナルドさんを見送りに出たところを見た。
「おはようございます!」
二人に声を掛けると、レオナルドさんも、私が昨日の一件で顔を合わせていることを思い出したのか、こちらに向かって挨拶をしてくれた。
「おはようございます。カライから話は聞きました。昨日もそうですが、お世話になっているそうですね。」
「いえいえ…。」
お世話、なんて言われることを、私はしてない。ぱたぱたと手を振ったのを謙遜と受け取ったのか、レオナルドさんは穏やかな笑みを浮かべた。
「エイプリルさん、でしたね。」
「え、えぇ…。」
「これからも、カライをよろしくお願いいたします。」
深々と頭を下げられ、私は逆に恐縮してしまった。
「そんな、こちらこそ! これからもよろしくお願いいたします!」
「…レオナルド。そろそろ行かないと、遅れるぞ。」
カライさんの低い声に、レオナルドさんはやっと顔を上げてくれた。
「っと、そうだな。じゃあ、行ってくる。」
「…あぁ。気を、つけてな…。」
「…分かっている。」
こちらに手を振って、レオナルドさんは駅に向かって歩いていく。その後ろ姿を、カライさんは見えなくなるまで、ずっと見つめ続けていた。
「…カライさん、レオナルドさんのこと、本当に大好きなのね。」
「……!」
少しからかうと、彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまう。こんなところは、やっぱり普通の女性と同じで、
(可愛い。)
のだった。
共に腕を磨きあって、お互いを尊敬しあっている、レオナルドさんとカライさん。
あの二人は、いわゆる「お似合いの夫婦」なんじゃないか、と思う。
だけど。
「はあっ!!」
「ふっ!」
…裂帛の気合を込めて、打ち合わされる二振りの刀。
この二人が本気で鍛錬しているのを見るのは、やっぱり、まだちょっと、怖い。
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蒼木るり/Deep Aqua Forest presents.