焼きたてパンは修羅場の香り
「親子でパン作り教室?」
晩酌の最中、学が持ってきたプリントを見て、私は小さく呟いた。
「うん。お父さん、参加出来る?」
聞かれて、私はプリントに書かれた日付を見てみた。来週の木曜日は…。
「祝日か…。うん、大丈夫だぞ。」
「わーい! やったー!」
無邪気にはしゃぐ学。私はプリントの下のほうにある出席確認の欄の「出席」に丸を付けた。
「どんなパンを作ろうかなー? チョコレートを入れようかな、それとも…。」
「そうだな、父さんはメロンパンがいいかな。」
「えへへ、早く来週にならないかな。楽しみだね、お父さん!」
「あぁ。」
気の早い息子に笑顔を返し、私はグラスの中のビールを飲み干した。
パン作り教室当日の朝。
私は、二人分のエプロンや三角巾などが入った袋を持ち、学校への道を歩いていた。
学はというと、私の少し前をスキップしながら歩いている。その表情は、心底楽しそうだ。
「お父さん、早く早くー!」
「そんなに急かさなくても、父さんはどこにも行かんぞ。」
そう答える私も、自然と笑顔になってしまう。
程なく、学校に着く。すると、校門のところに立っている女の子を見て、学が急に走り出した。
「愛ちゃーん、おはよー!!」
「あっ、学くん! おはよ。」
声を掛けられて、その子は学に笑顔を返す。
肩までの髪をピンクのカチューシャで纏めており、少し大きめの眼鏡が印象的だ。
「学、この子は…?」
すぐに追いついた私が言うと、学はにこにこ笑顔で彼女を紹介してくれた。
「お父さん、同じクラスの愛ちゃんだよ!」
「初めまして、末浦愛です。」
小学一年生にしては、ずいぶんと大人びた子だなぁ…。
「初めまして。シュワンヘルト・バルジです。」
私も挨拶をすると、彼女―― 愛ちゃんは、にっこり笑って頷いてくれた。
「学くんったら、学校でもお父さんの話ばっかりなんですよ。」
「だって、お父さんカッコいいもん! ねえ、お父さん!」
「いや、照れるな…。」
急に話を向けられ、私は本気で照れる。そこに追い討ちをかけるように、
「ほんとだ、学くんの言うとおり、カッコいいお父さんだね。」
などと愛ちゃんが言うものだから、私はすっかり恐縮してしまった。
「ねえねえ愛ちゃん、お母さんはどうしたの?」
学がそう言うと、それまで笑顔だった愛ちゃんの表情が急に曇った。
「実は…、お母さん、急に仕事が入って、来られなくなっちゃったの。」
「ええっ!? そんなぁ…。あんなに楽しみにしてたのに…。」
そう言いつつ、学が私の顔を見上げる。
息子の意図するところを察し、私は愛ちゃんに視線を合わせてこう言った。
「よし、それじゃあ愛ちゃん、私たちと一緒にパンを作るかい?」
「…いいんですか?」
「もちろんだよ!」
…美味しいところを、学に持っていかれてしまった。
ともあれ、話は決まった。私達は三人連れ立って、家庭科室へ向かった。
「…という事なのですが、宜しいですか?」
「えぇ、いいですよ。学くんと愛ちゃんは、とっても仲が良くて、羨ましくなってしまうほどなんです。」
事情を担任の先生に説明すると、快く了承してくださった。
ここ家庭科室は、学たちの学年は普段使わない部屋だ。調理実習があるのは五年生からなので、
初めて入る教室に、子供達は興奮を隠せないでいる。学もその一人だ。
子供達のエプロンを着せてあげ、最後に自分もエプロンと三角巾をしたところで、担任の先生が教壇に立った。
「はーい、みなさーん! 今日は、みんなでパンを焼きまーす! お父さんお母さんと協力して、美味しいパンを作りましょうねー!」
「『はーい!!』」
子供達の元気な声が、家庭科室に響く。パン作りのスタートだ。
……実を言うと、私は少しほっとしていた。
こういう行事の際、男親は私一人になってしまうかな…と思っていたのだが、
集まった家族の中には、ちらほら男性の姿もある。良かった…。
「愛ちゃん、僕たちもやろ?」
「うん!」
学と愛ちゃんが作業台に手を伸ばす。もう材料は机の上に揃っているため、
私たちがやる事といえば、生地を捏ねて形を作り、焼くぐらいのものだ。
「よいしょ、よいしょ…。」
ボウルの中の小麦粉を、愛ちゃんが丁寧に捏ねていく。さすがに女の子だ、手つきが慣れている。
それに比べて学は……。
「…学、顔が真っ白だぞ…。」
「……えへへ。」
どこをどうしたのか、小麦粉で顔が真っ白になっている。
ハンカチで顔をきれいに拭いてやると、愛ちゃんがくすくす笑う声が聞こえた。
…と、そんな事もしながら、ようやくパン生地の成形に入る。
学は教壇からこしあんを貰ってきて生地に包み、愛ちゃんはイチゴのジャムを包んでいる。
私はというと、薄く平らに伸ばした生地を三角形に切り、くるくると丸めて……。
「ほら、クロワッサンだ。」
「お父さんすごーい!」
出来たものを見せると、学は尊敬の眼差しでこちらを見てくる。嬉しいのだが、少しだけ恥ずかしい。
「あたしも、クロワッサン作っていいですか?」
「もちろん。」
「あー、愛ちゃんずるーい! 僕もやるー!」
「分かった分かった。」
二人の前へ三角形に切り分けた生地を置き、私は手に付いた粉を叩いて落とした。
「さあ二人とも、真っ直ぐに巻くんだぞ。」
子供達の手つきを、私はじっと見守る。愛ちゃんはきれいに巻けているが、学は少し曲がってしまったようだ。
「お父さーん……。」
学がげんなりした顔でこちらを見てくる。私はぱたぱたと手を振り、
「手作りらしくていいじゃないか。きっと美味しいぞ。」
「…うん!」
困り顔だったのが、あっという間に笑顔になった。
さて、後は焼くだけだ。その前に、私は卵黄を溶いて、パン生地の表面に塗っておいた。
「お父さん、何してるの?」
「ん? こうしておくと、キレイに焼けるんだ。」
「すごーい!!」
……尊敬の眼差し、二つ。学に加えて、愛ちゃんまでもが、きらきらした目でこちらを見つめていた。
やはり照れる。
天板の上に生地を並べ、オーブンに入れる。スイッチを入れると、子供達の視線は中のパンに釘付けになった。
「おいおい、まだ焼けるまで時間があるぞ。こっちで座って待っていなさい。」
「でもお父さん、僕、パンが焼けるとこ見たいな…。」
「あたしも見たいです。」
二人の言葉に、私はぽりぽりと頬を掻き、
「…まぁ、いいだろう。」
そう言うと、子供達はオーブンの内部に視線を戻した。二人がかりで言われては、反論できない。
パン生地を熱心に見つめる彼らを、私は微笑ましく見つめていた。
香ばしい匂いが、まだ部屋の中に残っている。
焼きあがったパンは、自分達で美味しく頂いた。やはり、自分で作って食べると、美味しさも倍増する。
「学! サッカーやろうぜ!」
「うん!!」
片づけが終わった後、学はお友達に誘われて、校庭でサッカーを始めた。
その様子を、私たち親は校庭の端から見ている。
「いやはや、子供達は元気ですなぁ。」
「そうですね。」
隣にいた男性と、少し話をする。温かい日和であるため、彼はしきりに顔を手で扇いでいた。
「私なんか、たまーにパン作りなんかやっただけで、へとへとだっていうのに…。」
「分かります。ですが、普段は仕事ばっかりで、子供達とあまり触れ合えませんからね。
こういった行事も、たまには良いものですよ。」
「…確かに、そうですな。」
笑いあい、私たちは校庭に目を向ける。私の目の前で、学がちょうどシュートを決めた。
「愛ちゃーん、またねー!」
「うん、ばいばーい!」
愛ちゃんを彼女の家の近くまで送り届け、私と学は家路に着いた。
帰り道、私は今朝から気になっていた事を、学に聞いてみた。
「なぁ、学。愛ちゃんはもしかして、お前の…。」
「…ガールフレンド、って言うと、ちょっと恥ずかしいんだけど…。」
言いながら、学はぽっと頬を赤く染める。
「やっぱりそうか…。」
学も、そんな年頃になったか…。息子の成長振りを、私はしみじみと感じた。
「でもお父さん、愛ちゃんのこと、ルイには言わないで…。」
「何でだ?」
「…怒るから。」
言われて、私は普段のルイの行動を思い返してみた。
ルイは昔から学にべったりで、少しでも他の女の子と仲良くしているのを見ると、烈火のごとく怒る。
「…分かった、言わないよ。」
「約束だよ。」
学が右手の小指を伸ばしてくる。私も同じようにし、「指きりげんまん」をした。
夕飯後の、ゆったりとした時間。私はソファーに腰掛けてテレビを見ている。学はその隣にいた。
ルイは、部屋の隅に置いておいたおもちゃ箱から、クレヨンと画用紙を持ち出した。
「ブルースおにいちゃん、おえかきしよー。」
「いいよ。ちょっと待ってて。」
ブルースが居間を出て行く。残されたルイは一足先にお絵かきを始めたようだ。
ほどなく、ブルースが色鉛筆を持って戻ってきた。自分の部屋まで行って取ってきたらしい。
「何を描いてるの?」
「おはなー! いっぱいかくの!」
ルイはクレヨンを使い、画用紙の上にたくさんの花を描いている。
それを見たブルースは、色鉛筆を取り出し、ルイの描いた花の周りに他のものを描き始めた。
「わー、ちょうちょ!」
「キレイなお花には、必ず来るからね。」
「えへへ。」
ルイは、自分の描いた花を褒められて上機嫌だ。そんな光景を横目で見つつ、私はテレビに視線を戻した。
すると、突然電話のベルが鳴った。すぐ近くで本を読んでいたデイビッドが出てくれる。
「もしもし。……あぁ。おーい学、お前に電話だぞー。」
「僕ー?」
呼ばれた学がソファーから降り、デイビッドから受話器を受け取る。
「もしもし。あっ! うん、大丈夫だよ!」
出るなり、にこにこ笑顔で会話を始める学。その声は、心から楽しそうだ。
「電話、誰からだ?」
私が聞くと、デイビッドはにやにやしながら教えてくれた。
「愛ちゃんだよ。末浦愛ちゃん。」
「あぁ、あの子か。学のガールフレンドだよな。」
ぴしっ。
私がそう言った瞬間、部屋の空気が凍りついた。
「ル、ルイ?」
ブルースが、いきなり変貌を遂げた妹を驚きの眼差しで見つめる。
それまで楽しく絵を描いていたはずのルイが、その手を止め、俯いていた。
顔全体に陰が掛かり、表情を窺い知ることが出来ない。
ルイはゆらりとその場に立ち上がると、まだこの状況を知らずに楽しくお喋りしている学へと近づいていった。
「……。」
全員、言葉もない。テレビから聞こえてくる音声さえも、その意味をなくしていた。
「…うん! じゃあ、また明日ね!」
学は笑顔のまま電話を切る。そのタイミングを見計らったように、
「おにいちゃんの……!」
ルイの怒気を含んだ声に、学が慌てて振り向く。が、すでに手遅れだった。
「バカーーーーーっ!!!!!」
大きく叫んだルイは、そのまま学をべしべしと叩き始めた。
「うわー! 何だよー!?」
「あのひととなかよくしちゃダメって、あれほどいったのにー!!」
頭を手でかばい、ルイから逃げる学。それを追うルイ。
「おにいちゃんのバカー! ぼくねんじーん!!」
「わーっ! だから言わないでって言ったのにー!」
すっかり硬直してしまった私たちは、ただ唖然として走り回るルイと学を見ていた。
その後、完全に拗ねてしまったルイをブルースが宥めてくれている間、
私とデイビッドが学に謝り倒したのは、言うまでもない。
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