Passage of... :Unique



俺が、その喫茶店を見つけたのは、ほんの偶然だった。会社の帰りに、少し違った道を通ろうと、普段は素通りする路地を曲がった。すると、その店が俺の前に現れたのだ。
「こんなとこに、喫茶店なんてあったのか…。」
そう呟いて、俺は足を止める。五階建てのビルの一階部分に、その店はあった。レトロな外装、かなり古いものだと見ただけで分かるドア。
「喫茶 レオ。」 
外に出されていた看板を読み、俺は逆にその素っ気無さに興味を引かれた。恐らく、この「レオ」というのが、ここのマスターの名前なのだろう。俺の予想が正しければ、こういった店ほど、旨いコーヒーを出してくれるはずだ。興味を抑えきれなくなり、俺はその店のドアを開けた。
からん、とドアベルが鳴る。次の瞬間、カウンターの中にいた男の鋭すぎる視線が、俺を射抜いた。思わずその場に硬直してしまう。
(…え? 俺、普通に入ってきただけなんだがな…。)
何か言われるかとも思ったが、彼は口を開くことなく、俺から視線をそらし、コップを拭く作業に戻る。気を取り直して、俺はカウンター席に腰掛ける。客は俺一人。わざわざ離れたところに座るのもどうかと思い、俺は彼の目の前に席に陣取った。
「……。」
俺を一瞥したあと、彼は無言で一枚の紙を差し出す。どうやらメニューらしい。しかも、書かれているのは豆の名前のみ。コーヒー以外は出さないのだろうか。俺はメニューに目を通し、彼の顔をうかがいながら注文をする。
「…じゃあ、ブルーマウンテン。ブラックで…、そうだな、喉が焼けるくらい熱いやつで頼む。」
「……。」
聞いているのかいないのか、それでも彼はコーヒーの準備を始める。
(かしこまりました、ぐらい言えよ…。)
そう思いながら見ていると、目の前にコーヒーサイフォンが出てきた。近頃はコーヒーの入れ方も多彩になってきているが、ここではいまだにサイフォンを使っているらしい。何とはなしに好感が持てた。
やがて、入れたてのコーヒーならではの、芳醇な香りが漂ってくる。白地に青の縁取りの入ったカップに、たっぷりとコーヒーが注がれる。注文どおり、ブラックの熱いものだ。
「……。」
お待たせしました、の一言もなく、俺にコーヒーを出した後は、またコップを拭く作業を始める。すさまじいまでの素っ気無さに首を傾げながら、俺は出されたコーヒーを口に運んだ。
「…!」
一口飲んで、俺は愕然とする。
「…美味ぇ!」
自然に、そんな言葉が漏れる。熱さ、濃さも申し分なく、コーヒー豆の旨みが存分に引き出されている。こんな美味いコーヒーは、生まれて初めてだった。
ふと気づくと、マスターがじっとこちらを見つめていた。その視線を受けて、俺はもう一度口を開く。
「いや、ほんとに美味ぇよ、このコーヒー!」
俺の力説に、今まで無表情だった彼の口角が、わずかに上がった。
(あ、笑った…。)
何だ、ちゃんと笑えるんじゃねぇか…。俺は妙に嬉しくなって、それ以降は黙ってコーヒーを飲み続けた。


それから俺は、仕事の帰りに必ずその喫茶店に寄るようになった。行けば、あの美味いコーヒーが飲めるから。
いつ立ち寄っても、彼はまず、入ってきたばかりの俺をあの鋭すぎる視線で射抜く。そして、必要最低限の言葉を発する以外、決して口を開かない。ため息すらつかない。最初のうちは驚いたが、何度も通っているうちに、それも慣れた。
顔を合わせ続け、少し親しくなった俺たちは、ぽつぽつと話をするようになった。とは言っても彼は知っての通り無口なので、俺が自分の話をするだけに留まっている。
「一応、俺は会社では、部長って肩書きになってる。これでも、部下には慕われてるんだぜ。部下は若ぇ奴ばっかりでな。時々、ついていけねぇ時もあるんだ。」
「…そうか。」
素っ気無い返事だが、それでも俺には、彼がきちんと話を聞いてくれているんだと分かる。
…一度だけ、「結婚はしていないのか」と聞かれたことがあった。…あんまり聞かれたくない話題だったが、俺は正直に答えた。
「してねぇ。そういうのとはとことん縁がなくてな…。」
答えて、俺はコーヒーで喉を潤す。こんな年にもなって未だに独身な俺を、彼はどう思ってるんだろうな…。
「…納得した。」
「え?」
予想外の一言に、俺は目を丸くする。納得って、どういう事だ…?
「…いつも、ここでゆっくりとコーヒーを飲んでいくから、早く帰らなくて良いのか、と気になっていた。」
「…あぁ、そうか。」
彼が口にした理由に、俺は変なこと気にすんなと思いつつ、無意識に彼から視線をそらす。…本当は、「お前は?」と逆に聞いてみたかった。しかし、彼は絶対に答えないだろう。それが分かっていたから、俺はあえてだんまりを決め込んだ。
この店を開いた経緯も聞き出した。十年ほど前に、働いていた会社を辞め、心機一転でこの喫茶店を開いたのだと言う。
「とは言っても、ここで儲けようとは思っていない。言うなれば、暇つぶしの道楽のようなものだ。」
「道楽、ねぇ…。」
そう言われて、俺はカウンターの上で、半分ほどになったコーヒーを見つめる。
「…道楽とはいえ、こんなに美味いコーヒーが入れられるんだから、…素直にすごいと思うけどな、俺は。」
俺の漏らした賞賛の言葉に、彼は驚いたような表情をし、しばし視線をさ迷わせた後、ようやく聞き取れるぐらいの声音で言った。
「……ありがとう。」
(…あれ、照れてんのか…?)
今まで見たこともない彼の表情に、何故かこっちまで恥ずかしくなってしまった。

そして今日も、俺は仕事帰りに店に寄った。ドアを開けると、いつものマスターの視線が俺を射抜く。最初は鋭い眼光なのが、入ってきたのが俺だと分かった途端、その眼力が即座に緩む。…顔、覚えられたんかな。
「よ。…いつものな。」
カウンター席、彼の目の前に腰掛け、俺は一言で注文を済ませる。この頃、この一言だけで済むようになってきた。…まあ、もともとここはコーヒーしか出さないようだし、当然といえば当然か。
注文を待つ間、俺は店内の内装を見てみる。古きよき、といった感じの内装は、どこか懐かしい印象を受ける。
やがて、俺の目の前に淹れたてのコーヒーが置かれた。さっそく口をつけ、美味さにほっと心を和ませる。
「今日も美味ぇ。」
素直な誉め言葉を漏らすと、彼は少しだけ口角を上げる。普段は無表情の彼が浮かべた笑顔だから、何となく、…眩しく見える。
(…バカ、何考えてんだよ、俺はよ。)
脳内の考えを一蹴し、俺はカップを傾ける。すると、店のドアの前に人影が現れた。珍しい、俺以外に客か…?
そう思った次の瞬間、俺と彼は、露骨なまでに眉を顰めることになる。
「やっだぁー、もぉー! きゃはははは♪」
…明らかに場違いな、甲高い女の声。入ってきたのは何と、まだ二十代になったばかりぐらいの、思い切り騒々しいカップルだった。
(何だこいつら…。)
急に騒がしくなった店内に、俺はいささか気を悪くしながら、それでもコーヒーを喉に流し込む。すると、先ほど入ってきた二人は、俺から一席分離れてカウンター席に座り、こんなことを言い放った。
「ねー、あたしパフェ食べたーい☆」
「パフェなんて、可愛いなーお前はー。なあオッサン、カプチーノとー、キャラメルマキアートとー、チョコパフェ一つな。」
そんなもんねぇよ…。心の中で呟いた言葉を、彼がそっくり引き継いだ。
「…そんなものは無い。そういった物が食べたければ、どこぞのレストランにでも行っていろ。」
低く、凄みのある声で、彼がそう言う。しかし、若いというのは恐ろしいもので、この若者は席を立ち、彼に食って掛かってきた。
「何だとオッサン! それが『お客様』に対する態度かよオイ!」
今にも、カウンター越しに彼に掴みかかろうとする若者。対して彼は、冷ややかな視線を若者に送っている。…仕方ない。
「…おい、お嬢ちゃん方。」
不意に彼らの間に割って入る。反射的に俺のほうを見た若者は、俺がスツールに腰掛けたまま、ぎろりと下から睨め上げるような視線を注いでいるのに気づいた。思わず言葉をなくす若者に、俺は続けて声を掛ける。
「…悪ぃけど、俺ぁ静かにコーヒーが飲みてぇんだ。…出てってくんねぇか?」
俺の視線に気圧されたか、彼らはそれ以上何も言うことなく、静かに店を出て行った。平穏が戻ってきたことに安堵し、俺はため息をついた。
「あー…、出てってくれたか。良かった…。」
はは、と乾いた笑いが漏れる。ふと顔を上げると、彼が俺にじっと視線を注いでいた。
「…どうした?」
「…何でだ?」
「えっ?」
何で…? あぁ、さっきの奴らとのやり取りに、俺が口挟んだことかな。
「だってよ、あんたがキレたらマズいだろ? 一応、客商売なんだからよ。それに…。」
一度言葉を切り、俺はコーヒーで喉を潤す。
「…見ての通り、こんな風貌だ。荒っぽいことなら、こっちに任せとけよ。」
…俺が、「こんな風貌」と言ったのには、ちゃんと理由がある。俺の左目は、若い頃に遭った交通事故のせいで、潰れてしまっている。特に眼帯などで隠しもせず、取り立てて不自由なことはないが、…やはり、初めて会う人などには驚かれる。
加えて、体を鍛えることも好きだったため、この年にしては、まだまだ引き締まった体をしている…と思う。まぁ、こんなガタイのいいおっさんだ。ビビるよな、そりゃあ。
「…どうしたんだ、その目。」
「……。」
これまた、言いづらい事をいとも簡単に聞いてくれる。俺はため息の後に、交通事故で失ったことを告げた。
「…済まない。」
話の重さゆえか、彼が謝罪の言葉を口にする。俺はぱたぱたと手を振り、
「そんなん気にすんなって。もう過ぎたことなんだからよ。それより…。」
カップに残ったコーヒーを飲み干し、俺はお代りを頼んだ。あいつらの分まで、ここのコーヒーを堪能してやろう、と思ったからだ。
しかし、会計を済ませるときに、俺は怪訝な顔になる。伝票に書かれていたのは、コーヒー一杯分の値段のみ。
「おい、俺、二杯飲んだはずだぞ?」
勘定を間違ったのかと思い、俺はそう声を掛ける。その言葉に、彼はこちらを見て、ふわりと笑顔を浮かべた。
「…先ほどのお礼だ。」
(…あ。)
初めて聞いた、彼のこんなに優しい声。初めて見た、あんな笑顔。
(何だ、ちゃんと笑えるんじゃねぇか…。)
「…あー、ありがとよ。」
何故か照れてしまい、俺は彼から視線を逸らしながら、会計を済ませ、店を出た。
…家に帰ってから気づいた。俺の興味は、そこで飲めるコーヒーから、…マスター本人に移っていっている。
もっと、彼のいろんな表情を見たい。もっとあの、少し甘めのテノールを聞きたい。
(何で俺、こんな事思ってんだ…?)
ベッドに潜り込んでもなお、彼の顔が頭から離れない。そのせいで、眠れない。
…まぁ、仕方がないのかもしれない。俺にとっては、久しぶりの職場の人間以外との関わりだ。それに、彼が無口であまり語らないのが余計に、想像力をかきたてる。
(…いいや、寝ちまえ…。)
あれこれ悩んでいても始まらない。明日になれば、またあのコーヒーが飲める。彼にも会える。気を取り直して、俺はふっと目をつぶった。


その週の金曜日。俺は定時で仕事を終わらせ、彼の店に向かっていた。一昨日は仕事でトラブルがあり、昨日は夕方になって急な会議が入ってしまい、二日も店に寄ることが出来なかった。だから、今日こそは…、と、俺は息巻いていた。しかし。
「……あれ?」
近くまで来たのに、店の明かりが点いていない。扉の前まで来て、俺は初めて扉に「Close」の看板が掛かっていることに気がついた。
「何だ、今日休みかよ…。」
何だか気が抜けてしまい、俺はがっくりと肩を落とした。それはそうだ。向こうにだって都合はある。いつもいつも店を開いているわけではない。しかし…。
(飲みたかったんだけどな、あいつのコーヒー…。)
ため息一つつき、今日は真っ直ぐ帰るかと、踵を返しかけた時だった。
「何だよオッサン!」
「もういっぺん言ってみろ!」
…剣呑な声が、すぐ近くの路地から聞こえてくる。何だと思って顔をのぞかせると、そこには彼がいた。買い物袋を抱えたまま、背中に若い女性をかばっている。そして彼の前には、見るからに柄の悪そうな若者が二人。
「…何度でも言う。嫌がっているんだ、止めてやれ。」
彼は低い声でそう言うと、背後の女性に手振りで「逃げろ」と合図した。それを見て、女性はそろそろとその場を離れていく。若者たちはそれに気づいていないようだった。
「てめぇ…、ふざけやがって!」
激昂した若者は、彼に向かって拳を振り上げる。おいおい、あんなの余裕で避けるだろ…と思っていたが。
「ぐっ…!」
予想に反して、彼は若者の拳を避けられず、頬に一撃を食らってしまう。続けざまに放たれた腹へのパンチが、彼をその場に崩れさせた。
(おい、やべぇんじゃねぇか…!?)
何があったというのか、彼はやり返す事もせず、そのままへたり込んでしまう。
「口ほどにもねぇオッサンだな、やっちまおうぜ!」
抵抗できない彼に、若者たちは揃って殴りかかろうとした。…仕方ねぇ!
「おいお前ら!! そこで何やってんだ!!」
こういう手合いを脅すには、まずは低いトーンでの大声だ。俺は持っていた鞄を物陰に隠し、声を張り上げながら奴らに近づいていく。
「ケンカしてぇんなら、俺が相手になるが、どうする?」
指の関節を鳴らしながら言うと、奴らは狼狽えたように顔を見合わせ、そそくさと路地の奥へと去っていく。
「ったく…。」
短く吐き捨てると、俺はへたり込んだままの彼に近寄り、声をかけた。
「おい、大丈夫か?」
俺の声に、彼はゆっくりと顔を挙げ、ため息混じりに呟く。
「あんたか…。」
その声が、やけに弱々しく聞こえて、俺は心配になってしまう。
「大丈夫なのかよ…。さっきのアレだって、お前だったら避けられただろ?」
「…前に、言ってただろ。荒っぽいことなら、自分に任せろ、って…。」
途切れ途切れの言葉に、俺は妙な違和感を覚える。直感に従い、俺は彼の前にしゃがみ込み、自分の額を彼の額を、こつんと合わせた。
「…おい、何を…。」
「何を、じゃねぇよ! お前、すげぇ熱じゃねぇか!」
そう。彼は体調を崩していた。店を閉めていたのも、あんなパンチを避け切れなかったのも、このためだったんだ…。
「ほら、立てるか? 遠慮しないで、俺の肩に掴まれ。」
俺は彼に肩を貸し、何とか立ち上がらせる。空いた方の手で、自分の鞄と彼の荷物をまとめて持った。
「家まで送るから。お前ん家、どこだ?」
「…いい。そこまで、迷惑を掛けられない…。」
「……おい。こんな状態のお前を放って帰れるほど、俺は薄情じゃねぇぞ。いいから、お前ん家どこだよ。」
重ねて言うと、彼はついに根負けしたのか、自宅を教えてくれた。ここって…。
「お前の喫茶店があるビルじゃねぇ?」
「…ここの二階が、俺の部屋だ…。」
…なるほど。俺は納得し、ビルの入り口からエレベーターを使って二階に上がった。一階部分は喫茶店だが、上の階はマンションになっているらしい。
「二階だぜ。お前の部屋、どこだ?」
まずい。彼がぐったりし始めている。早く寝かさねぇと…!
「…二〇、一…。」
それだけ言うのが精いっぱいな様子で、彼は荒い息をつきながら、引きずられるように歩く。言われた通り、俺は二〇一号室まで行き、彼のジャケットのポケットから鍵を取り出し、ドアを開けた。
入ってすぐに受けた印象が、生活感の無さ。必要最低限の物しか、この部屋には置いていないようだった。ベッド、箪笥に小さな引き出し、冷蔵庫、部屋の真ん中にある小さいテーブル。それがこの部屋の家具の全て。テレビすらもなかった。
「お邪魔するぜー…。」
とりあえず俺は、彼の体をベッドに寝かせる。真っ赤な顔をしている。冷やさないとな…。
「えっと、タオル…。」
俺は衣類が入っているであろう箪笥を、失礼して開けてみる。少し探すと、引き出しの中にタオルが見つかった。それを水で冷やし、彼の額に乗せてやる。苦しそうな表情が、少しだけ和らいだ。
しかしこれは、応急処置に過ぎない。何か食べさせて、薬を飲ませて…と思ったが。
「…レトルトばっかりじゃねぇか…。」
彼が買ってきたであろう荷物を探ると、出てきたのはカップ麺の類や、レンジで温めるごはん、おかゆのみ。まさかと思ってもう一度台所へ行くと、ガスコンロはあったが、他には皿が数枚と、小さな鍋、包丁が一つ。…もしかしてこいつ、あんなに美味いコーヒーが淹れられるくせに、料理が全くダメ、とか…?
恐る恐る、水周りを覗いてみる。脱衣所と思われるそこには、彼の衣服が山積みになっていた。…案外とズボラなんだな。
冷蔵庫の中には、かろうじて出来ていた氷ぐらいしかない。また、箪笥にも着替えに使えそうな物がない。彼の部屋は、思った以上に酷い状態だった。
「うーん…!」
俺は悩んだ末、一旦自宅に帰り、必要なものを取ってくることにした。出掛けに彼の額のタオルを濡らしてやり、俺は彼の部屋を飛び出した。
「すぐ戻るから、待ってろよ!」
久しぶりの全力疾走だ。ここから俺の部屋までは、何分も掛からない。行って来られない距離ではない。俺はコーヒーのことなどすっかり忘れ、陽が落ちた街を走り抜けた。


今日ほど、二十四時間営業のスーパーとドラッグストアのありがたみを感じたことはなかった。
食料と薬を買い、俺は彼の部屋に戻る。ベッドで大人しく寝ている彼の枕元には、氷水を満たした洗面器が置いてある。中には新品のタオルが浸っている。もちろん、これは俺が自宅から持ってきたもの。
俺は荷物を置くと、冷蔵庫を開ける。自分で食べようと思って、自宅の冷蔵庫で冷やしていた桃の缶詰。それを取り出し、中の桃を一口大に切って、彼に持っていってやる。
「…ほら、桃だぜ。食えるか?」
「……。」
彼は無言のまま、小さく口を開ける。俺はそこに桃を一切れ差し入れた。冷たく甘い桃は、熱く火照った彼の体を冷やしてくれる。風邪を引いている彼には、丁度いいだろう。
「もっと食いたいなら、口開けろ。」
桃を飲み下した彼に言うと、迷わず口が開く。落とし込んだ桃は、瞬く間に彼の口内に消えていった。
結局、持っていった分を全部食べ、彼は満足そうに息をつく。続けて俺は、先ほど買ってきたばかりの薬を、ペットボトル水と共に差し出す。
「食ったんなら、薬も飲まねぇとな。」
彼は素直に薬を受け取り、水で喉の奥に流し込む。飲んだのを確認して、俺は彼の額のタオルを取り、そこに手を当てる。
「まだ熱高ぇな…。大人しく寝てろ。今夜は側に付いててやるから。」
洗面器の中のタオルを額に乗せてやると、彼は心地よさそうに目を閉じた。
彼が眠ったのを見て、俺も腰を上げる。何だかんだで、自分もまだ夕飯を食べていない。適当に用意をして、腹を満たした。
「はぁ…。」
満腹になったところで、俺は改めて彼の部屋を見渡してみる。奥にもう一部屋あるようだ。1LDK、と言ったところか。しかし、彼はベッドをリビング部分に置いており、奥の部屋は使っていないようだ。しかも、リビング部分も広めの作りとなっている。
(こんな部屋に、一人で住んでるのか…?)
俺がそう思ったのは、深夜十一時を回っても、この部屋に入ってくる人の姿がないから。俺と同じ、一人暮らしなんだな…。
「うっ…。」
苦しそうな声に、俺は視線を彼に戻す。熱も高いのか、かなり汗をかいているようだ。
飲みかけの水のペットボトルにストローを差し込み、彼に差し出す。無意識ながらも、彼は水分を求めて、ストローをくわえた。
(…結構、可愛い顔すんだな…。)
思わず、顔が赤くなる。…あれ、何で俺まで照れてんだ…?
水を飲み終え、彼はごろりと寝返りを打つ。この汗、拭いてやるか…。
思い立った俺は、たっぷりとお湯を沸かし、その中にタオルを浸す。そして、彼の着ていた服を上半身だけ脱がせた。
(…案外、いい体してんな…。)
さっきから胸を打ち続ける鼓動を、努めて気にしないようにし、俺は彼の体を熱いタオルで拭いてやった。殴られた腹が、そこだけ赤く染まっている。
俺は何ともなしに、その殴られた箇所を、手で撫でてやる。体調崩してるとこに、顔と腹を殴られたんだ。しんどかっただろうに…。
上半身を拭き終え、俺はちょっと迷う。このまま下半身も拭いてやるべきか…。…まぁ、男同士なんだし、気にする程のことでもないだろう。俺は無理やりそう思い込み、下半身も続けて拭き、着替えさせてやる。…やけにドキドキするが、気にしない、気にしない…。
「……。」
作業を終えると、体を拭いてさっぱりし、薬も効いてきたのか、彼の呼吸が緩やかになる。良かった…。
さすがにこの時間に洗濯機を動かすわけにはいかない。洗濯は明日にしよう。それに。
(明日は土曜で、会社も休みだ。ずっとこいつに付いててやれるしな…。)
久しぶりに、こんなに人の世話が焼ける。その事を少し嬉しく思いながら、俺は彼の額のタオルを取り替えてやった。


仮眠を取った俺は、真っ先に彼の具合を看る。呼吸は穏やかだし、脇に差し込んだ体温計は、平熱であろう範囲を示している。もう心配はないだろう。
「さて、と…。」
彼が起きたら口に入れられるものをと思い、俺は台所を借りる。レトルトのご飯を使って、みじん切りの葱を入れた卵雑炊を手早く作る。いい匂いのそれを、少しだけ小皿にとって味を見る。と、
「あ…。」
背後で、彼が目を覚ました。俺は小皿を持ったまま振り返り、ベッドの上に身を起こした彼に声をかけた。
「よう。起きたか?」
「……。」
彼は無言で、額から落ちたタオルを拾い、じっと俺を見つめてきた。
「…あんた、一晩中、俺についててくれたのか?」
「あぁ。ま、乗りかかった船、ってヤツだな。雑炊作ったけど、食えるか?」
「…ありがとう。」
彼は小さく呟き、ベッドから降りようとして…、ここで、自分の着ているものが、普段とは違うのに気づいたらしい。
「…お前、これ…。」
掠れた様な声に、俺は笑って答える。
「あぁ、俺の。ついでに言うと、下着も俺の。サイズが合って良かったぜ。何しろこの部屋、他に着替えがねぇんだもんなぁ…。」
雑炊の鍋をかき回しながら言うと、彼は何故かおろおろとし始める。…何だ?
「…体を拭いてもらっている感覚はあったが、まさか…、…お前、俺の体、見たのか…!?」
「…そりゃあ、見たけど…。」
「……っ!」
おい待て。何でそこで真っ赤になる。
「…別に構わねぇだろ? 男同士なんだからよ。」
「そ、それは、そうだが…。」
だから、そんな恥ずかしそうな顔すんなって。こっちまで恥ずかしくなってくるじゃねぇか…。
「さて、出来たぜ。」
微妙な空気になりかけたのを吹き飛ばし、俺は器に雑炊を流し込む。テーブルの上に置いてやると、彼はそれをまじまじと見つめた。
「お前が作ったのか?」
「おう。これでも、家ではちゃんと自炊してっからな。さ、冷めねぇうちに食え。」
彼に薦めておき、俺も雑炊に手をつける。…うん、我ながら、美味い。
「……。」
彼も雑炊を口に入れる。すると、何となくほっとしたような表情になる。どうも、口に合ったらしい。
「美味ぇか? 美味ぇだろう。何せ、この俺が作ったんだからな。」
スプーン片手に胸を張ると、彼は小さく頷き、笑顔になる。今度はこっちが真っ赤になる番だった。
「…ほ、ほら、早く食って、まだ寝てろ。」
俺は照れたのを隠すため、皿ごと持って雑炊をかき込む。やべぇな。何でこんな気持ちになるんだろう…。


「俺、ここに越して来ようかな。」
溜まっていた家事を全て片付け、あれから薬を飲んで一寝入りした彼との、昼食のとき。俺は昨夜から密かに思っていたことを切り出した。
「…何故だ?」
怪訝そうに聞いてきた彼に、俺はちょっと考え込むような素振りを見せ、
「ここの方が会社にも近ぇし…、こんなに広い部屋なんだ、俺一人転がり込んできたって、何の問題もねぇだろ。それに…。」
…何か、放っておけねぇんだよな、お前のこと。
苦笑交じりに本音を伝えると、彼はきょとんとした後に、くすくすと笑い始める。何だよ、笑うことか?
「…好きにするといい。」
「んじゃ、遠慮なく。これから宜しくな、えっと…。」
そういえば、改めて名乗りあった覚えがない。どう呼べばいいか分からず、困っている俺に、彼は笑顔で自分の名を教えてくれた。
「…レオナルド、だ。」
「…そうか。俺はラファエロっていう。じゃ、…これから宜しくな、レオナルド。」
「…あぁ。」
握手を求めて手を伸ばすと、彼も俺の手を握り返してくれる。いつも美味いコーヒーを淹れてくれる、彼の手。何となく照れくさくて、俺は空いたほうの手で、頬を掻いた。


こうして、俺とレオナルドの同居生活が、幕を開けたのだった。





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