バレンタインSSとして公開していたものです。
Vanilla essence (キム×ピエール)
オーブンから、甘い匂いが漂い始めた。
読みかけの本を置いて、様子を見に行く。丸い型の中で、ケーキのスポンジはしっかりと膨らんでいた。
同時に、焼き上がりを告げるメロディーが鳴る。俺は両手にミトンをはめて、熱くなった天板ごと、ケーキのスポンジを取り出した。
「…よし。」
真ん中辺りに竹串を刺し、何も付いていないのを確認して、俺は小さく頷いた。
中まで熱が通り、よく焼けている証拠だ。
スポンジを型から外して粗熱を取っている間に、俺は生クリームを泡立て始める。
ココアパウダーを混ぜ込んで焼いたスポンジに合わせて、チョコレートクリームを選んでおいた。
ボウルを二つ用意して、片方には氷水、もう片方にクリームを入れる。氷水で冷やしながらホイップするためだ。
棚からハンドミキサーを出していると、唐突に部屋のドアがノックされた。
「はい。」
「ピエール、居るか? 俺だよ。」
「いっ…!?」
俺が驚いているうちに、訪ねてきた人物――キムは、勝手に部屋の鍵を開けて中に入ってきた。
「よ。 …良い匂いがすると思ったら、やっぱり料理中か。」
「……来るのが早い!」
つい激昂する俺に、キムは至って平然と、
「えぇ? だって、待ちきれなかったんだから、しょうがないだろ…。」
確かに、俺は今日キムを部屋に呼んだ。だけど、肝心なものがまだ出来上がってないのに…!
「俺のことは気にしなくていいから、続けてくれよ。」
そう言って、キムは俺のベッドに腰掛け、手近に会った本を読み始めた。俺は嘆息しつつ、クリームを泡立て始めた。
ハンドミキサーのスイッチを入れると、徐々にクリームが泡立ってくる。俺はこの瞬間を一番楽しみにしている。
「…今、何してるんだ?」
「っ!」
急に横合いから声を掛けられ、俺は危うくハンドミキサーを落としそうになった。
「あー、びっくりした…。」
「そんなに驚く事ないだろ。お、クリーム泡立ててるのか。どれどれ、一口…。」
「あのなぁ…。」
俺の視線に気づいたのか、キムは伸ばしかけた手をすっと引っ込めた。と思いきや、キムはテーブルの上に置いておいた褐色の小瓶を取り、じっと眺め始めた。
「…ピエール、これ何だ?」
「バニラエッセンスだ。バニラの香りを使いたい時に入れる。」
キムがエッセンスの瓶を振る。買ったばかりだから、瓶の中にはまだかなりの量が残っている。
「こんなにたくさん使うのか?」
「全部使うわけじゃない。一、二滴で十分なんだ。」
「ふーん…。」
キムの返事を聞きながら、俺はここでふと我に返った。作っているところを見られちゃ、何にもならないじゃないか!
「キム、まだ出来ないから、部屋の方で待っててくれよ!」
「えー? 何か手伝おうかと…。」
「気持ちは有り難いけど、俺一人で作らないと意味がないんだよ!」
「何だよそれ…。」
キムは憮然としながらも、部屋の方へ戻っていった。俺は二回目のため息を吐き、料理に戻った。
粗熱の取れたスポンジを、上下に分かれるように切る。八分立てにしたクリームを下段の方に塗り、乾煎りしたくるみを散らす。
上段のスポンジを乗せ、残りのクリームを全体に広げる。特に側面は、段差を作りたくないので特に集中して取り掛からないといけない。
最後に、製菓用のチョコレートを包丁で削り、ケーキの上に振り掛ければ…。
「…出来た!」
オーソドックスな物ではあるが、チョコレートケーキの完成だ。
後ろから視線を感じる。振り向くと、キムが期待を込めた目でこっちを見ていた。
「…出来立て、食べるだろ?」
「勿論。」
キムの即答に苦笑を漏らし、俺は出来たばかりのケーキをキムの前まで運んでいった。
「…うん、美味い。」
ケーキを一口食べて、キムは満面の笑みを浮かべた。
「やっぱりピエールの作ったケーキは最高だな!」
そう言いつつ、キムは食べるペースを緩めない。あっという間に一切れを食べ終わってしまい、二切れ目が皿の上に乗せられた。
「喜んでもらえて、嬉しいよ…。」
俺はそんなキムを見つつ、紅茶を口に運ぶ。この日のために買っておいた特別な茶葉は、芳醇な香りを放っている。
「…でも、何で急にケーキなんて作ったんだ? おまけに、俺だけに食わせてくれるなんて…。」
「えっ…?」
キムの言葉に、俺は驚いた、まさか気づいてないなんて…!
「だって、それは……。」
俺は口篭る。言わなきゃわからないなんてなぁ…!
「…今日は、バレンタインデー、だろ…?」
キムの手が、ケーキを口へ運びかけた体勢で止まった。顔が赤くなっているのを感じて、俺は俯いた。
「…そっか、バレンタインデー、だったか・・・。」
照れているのか、キムの方も口調がぎこちない。
「…このチョコレートケーキも、俺だけを部屋に呼んだのも、そのため…?」
「……そう、だよ…。」
沈黙が落ちる。穴があったら入りたいというのは、この心境の事を言うに違いない。
「…ピエール、ありがとな。」
「えっ?」
思わず顔を上げると、そこには優しい笑みを浮かべたキムがいた。
「お前の気持ちが嬉しい。すっげぇ嬉しい。」
「キム…!」
胸に手をやると、そこからじんわりと温かさが広がっていく。やっぱり作って良かった…!
皿の上のケーキを食べつくし、紅茶を飲み干し、キムは満足そうに息を吐いた。
「で、俺、もう一つ食いたい物があるんだけどなぁ…。」
「ケーキ二個も食っておいて、まだ何か食うのか?」
「ああ。」
仕方ない、今日の夕飯も作ってやるか。少々呆れつつも、俺はキムの頼みを聞いてやることにした。
「で、何が食いたい?」
返ってきた答えは、俺の想像を遥かに超えていた。
「俺、ピエールが食いたい。」
「………はぁぁ!?」
食いたいって、まさか…!
「…そのまさか、だ。」
いつの間にか、キムは俺の横に回ってきていた。目が笑ってない、本気だ…!
「…いいだろ?」
「うっ…。」
耳元で囁かれ、俺は呻いた。間近でキムの吐息を感じて、顔が紅潮していく。
「…頂きます。」
そう言って、キムは俺の唇を塞ぐ。今日の口付けはいつもよりも甘かった。
湯煎で溶かしたチョコレートのように、俺の意識は瞬く間に蕩けていった。
その夜、俺はキムに文字通り美味しく頂かれてしまったのだった。
Sweet flavor (ブルース×バルジ)
ロックアイスが、グラスの中で小さく音を立てる。
その音で俺は、もうグラスの中身を飲み干してから、かなりの時間が経っている事に気づいた。
「……。」
それ以上飲む気になれず、俺は無言のまま、グラスを片付ける。かなり夜も更けてきた。そろそろ寝るか…。
大きく息を吐き、隊服を脱ぎ始める。すると、
「ブルース、まだ起きているか…?」
ドアの外から、バルジ隊長の声が聞こえてきた。
「隊長…?」
「話がある。ここを開けてくれ。」
…こんな時間に、緊急の用事なのだろうか。スクランブルだとしたら、放送が入るはずだが…。
ともあれ、俺はコートを着直し、ドアの開閉スイッチを押した。
ドアの向こうにいたバルジ隊長は、何故か呼吸が整っていなかった。
「すまん、こんな遅くに…。」
「…何か、あったのですか?」
隊長は、膝の辺りに両手を置き、何とか呼吸を落ち着けようとしている。そんな彼に、俺はコップに水を汲んで渡した。
「ありがとう…。」
それを一息に飲み干し、隊長は大きく息をつく。やっと落ち着いたらしい。
「間に合った…。」
そう言いながら、隊長はポケットから小さい箱を取り出し、俺に差し出した。
「受け取ってくれ、ブルース。」
言われるままに、隊長の手から箱を受け取る。何の変哲もない、ただの紙の箱のようだが…?
「何ですか、これ…。」
「何だ? 言わなければわからんか?」
隊長は笑う。俺はそれをじっと眺めていたが、不意に甘い匂いが鼻を掠めた。
その匂いは、明らかに手の中の箱から漂ってくる。もしかして…!
「そうだ、チョコレートだ。今日はバレンタインデーだろう? どうしても、今日中に渡したくてなぁ…。」
「隊長…!」
「まあ、開けてみろ。」
促がされ、俺は箱をゆっくりと開けてみる。中には小さなトリュフが六つ、並んで入っていた。
「既製品ですまん。何しろ、思い出したのがつい先ほどだったからな…。」
「いえ…、十分です。」
手作りだろうが、買ったものだろうが関係ない。それに込められた隊長の思いのほうが、俺には嬉しかった。
「一つ、食べてみてくれ。」
「…せっかく頂いたものですから、大事に食べたいのですが。」
「ブルースの喜ぶ顔が見たくて、急いで来たんだ。私の目の前で食べてもらいたい。頼む。」
そう言われては、断れない。俺は箱の中からココアパウダーが塗してあるのを選び、口に運んだ。
「美味いか?」
頷くと、隊長は安心したように笑ってくれた。
「良かった…。では、もう一つ…。」
「? まだ何か…!」
言葉の途中で唇を塞がれ、俺は固まってしまった。同時に、隊長は俺の背中に手を回し、ぐっと引き寄せてくる。
この上なく甘い口付けに、いつしか俺も目を閉じていた。
さて、一月後、何をお返しとして渡そうか、今から楽しみにしている。
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